だいじょうぶ
おまえのなはおぼえているのだから
37. 滔々と思い出せばこの悼み
緊迫した空気の中で、異様なほどはっきりと聞こえた水音に気がついたのはラビと、発生源の近くに立っていたのみ。
クロウリーを捉えていた薄紫の双眸をすばやく足元へと移してみれば、月夜の闇に勝るほど暗く淀んだ影のような何かが、有った。
どろりとした其れはタールの如く彼女だけを映しているように、の足元を覆っていて。
己の身を纏うエクソシストの証である黒色より遥かに、荒んでいて。
刹那、言い語れぬような焦燥を感じたラビは吸血鬼の事より、思考より本能とも言えるほどの瞬発力で。
地を蹴ったが刹那、自分でも心の奥底で生まれた言葉を詰まらせる程誰かの身を案じたことに、何故か゛ ラビ ゛という意識が驚き。
あとすこし、手を伸ばせば届くような場所で突如脚を踏みとどまらせてしまったのを彼はその後、後悔した。
「―――ッイノセ ン !」
も咄嗟にメリルシアで空へと飛び上ろうとしたが、翅が天に向かい伸びた瞬間ただ静かにたゆたっていた其れが、意志を持っているかの如く。
彼女の全身に張り付いて、翅さえも抱え込んでしまった後。
一瞬で、はその水たまりの中に引き込まれる。
「ッ!?」
クロウリーと対峙していたアレンでさえ、突然の展開に意識をこちらへと向けていたようで。
彼が叫んだ名前が、闇にそよぐ風で掻き消されてしまう前に視界から消える寸前のの指先が、ラビの伸ばした手にかすかに触れた気がしたが。
ただ掴めたのは、水に触れたときに感じる僅かな抱擁感だけが酷く、気が狂う程薄すぎて。
ラビは溶けて消えた彼女の色を追うように、唖然とその場所だけに視点を落とし、立ち尽くしていた。
その時だけ、やけに風がちいさく鳴いていて。
―――、 …懐かしい曲が 聴こえる
確か、ずいぶんと昔に記憶の奥底に仕舞い込んで、もう二度とあの時に戻れないみたいに
また四人で幸せな時間を分かち合いながら居られないのだろうと、決めつけた頃から忘れかけていた温かさ
そして此の世界に来てから初めて教えて貰った、さみしさを凌ぐために時を紡ぐ、こと
この曲は俺と、、
あとは、俺達の師匠である『彼』しか知らない筈の四人だけで書き上げた楽譜
歌詞は ない
旋律に乗せただけの、音
でも、なんで今更この曲が聴こえてくるんだろうという疑問が浮かび、は重く閉じていた瞼をゆっくりと、開く
意識だけは朦朧と起きていたせいか、ぐらぐらと揺れる頭の痛さを直に感じて、思いきり顔を顰めた
同時に、ある事に気が付き、今までにないくらい双眸を見開いた
『 なんッ で 今更 …ッつ、ぅ』
傷を負ったり、具合が悪くなった際に感じる筈の痛みを忘れていた―――いいや、゛感じなくなっていた゛はずなのに
今は、深いくらいに脳に響く鈍痛を嫌というほど、身に感じる
『痛ッ て、ぇ …』
どうしてなんだ
元に戻れるのは嬉しいはずなのに、突然と戻ることを恐れるみたいに、は小さく息を殺す
自分の状況を把握する為、意識を痛みから逸らすように微かに頭を動かした
どうやら自分は簡素な作りのソファーに寝かされているみたいで、少し身体を動かせばやわらかなクッションの反発力が働き、心地よさを覚える
だが先ほどまでは、仄暗い月夜の中でアレン、ラビと共に吸血鬼と噂されていた男と闘っていた筈なのに
こんな静かな場所にいたわけじゃなかった
片手で頭を押さえながら、上半身を起こしてくるりと視線を巡らせても静寂だけがその場に居て
不意に、視点を落としてみれば真白な世界に散らばっている煤けた大量の紙が、目に留まる
は一度、ちいさく首を傾けたがそのまま空いていた右手でその紙に触れようとした時、
≪ 、こんなおそくまでおきてたのか ≫
『 ―――ッ、 』
咄嗟に、呼吸をすることを思考が止めた如く、せかいが止まった
だってこの声は、もうしばらく聞いていなくて、
忘れかけていた彼のもの
≪ ……まぁ、自由な時間をどう過ごすも別にいいんだがな ≫
断片的に浮かぶ記憶
切り取られた絵画のように色彩が朧気でも傍で感じていたその時の空気が、肌を撫でる様で
段々と時が経つ度に込み上がる何かが、喉元から出かかった言葉をねむらせた
≪ ――…孤独が、裏切ろうと静寂がお前を守るよ ≫
そして星の夢が終えた頃、道化たちが戦場の紅蓮になろうとその鬨を詠う彼は記憶の奥底で弾け
露と消えた
2008/11/26