痩せた夢を思い出したら
41.この夜が孕んだ約束の無い明日
「アレン」
肌を打つ潮の香が微かに揺るう風にさらわれてしまいそうなほど、か細い呼び声にアレンは海へ向けていた視線を戻す。
船のマストへと上って、見えるはずもない向こうを見たくて暫く呆然としていたみたいで。
日本――江戸へと向け船旅の準備をしている皆は忙しなく動いているというのに、僕だけが時間のめぐりに追い付けないでいる。
師匠の行方を追う旅路は思わぬ進路を示されて、そして出会ったアニタという名の女性は陰ながら教団サポーターを請け負い続けていた家系の者。
そのアニタに、師匠の行方を聞いた答えが思わぬ事態に陥っていることに、思考が追い付こうとしない。
心を落ち着かせたくて、ひとり外れた場所に佇んでいたけれど、作業を終えたらしいがいつのまにか隣に立っていて。
僕と同じように広大な海の向こうを、静かにその紫の双眸に映していた。
「不安、それとも恐れ?」
「……僕にも、わからない。 まだ、理解できないみたいで…」
ぽつり、ぽつりと零す彼の声は酷く小さくて隣に佇んでいても耳をすませばやっと拾えるくらいの静穏。
は僅かに視線をアレンへと移すが、すぐに向き直ると一度瞬いて、息を吐き出すように言葉を紡ぐ。
「江戸―――いや、日本か。 俺たちの、故郷の名前なんだ」
「…っそれじゃあ」
「だけど違う、この世界は俺たちが居た場所じゃない」
苦しげに、だけど強く言い切る彼女は顔を俯かせる。
その表情はとても辛そうで、それでも現実を確かに認めているのか彼女の瞳は揺らいでいない。
風に揺らぐ黒衣と深い藍色を視界の端に映しながら、静かにまた海を見つめてみれば先ほどとは違って見えた気がした。
なぜだろうか、今いる場所の雰囲気も関係するのだろうけれど、僕はただ口を噤むばかりで。
世界に流れる風が一時、悲しく鳴いた気がする。
「だからと言って、諦めているわけでもないさ」
妙に、割り切っているような声色で突然とつぶやいたのは。
一瞬にしてその表情を変えた彼女に、唖然とした顔色を浮かべたアレンは心のうちで何故かその空気に凍えた。
前はこんなに前を向こうとする言葉など積極的に発することのなかったが―――?
「世界を終えたわけじゃない」、と。呟き程度の言葉にも。
忽然と心の行方を変えることの多くなった彼女に、言い語れぬ不安と戸惑いを感じながらも彼は何処か必死に笑みを零そうとした。
だが生憎にもそれは急な来訪者により歪な頬笑みにしか成らなかった。
彼の左目が突如海の向こう側に反応を示す。
それは紛れもなくアクマの魂を捉えた故の反応であり――それを知るも、彼へと向けていた僅かな笑みを消し薄めた双眸で先を見た。
空を覆ってしまうほどの大軍、稀に見ることさえないような余りにも規模の図れぬ来襲。
明らかな異変に船上で作業をしていた者たちも気がついたようで、アクマが来るというアレンの叫びに。
各々エクソシストが己の武器を発動させる音と光、それが始まりの警鐘。
轟音とも、強烈な圧迫感とも風圧とも呼べるような音が押し寄せた。
機械質の物体が過ぎる様子は視界を醜く黒々と塗りつぶし、異質な空気を薙ぎってゆく。
イノセンスをアクマへと向けていたエクソシスト達は、あることに気がついてふと手を止める。
どういったことか、彼らは全くアレン達へ眼もくれていないかのように攻撃してこない。
襲撃の目的はクロス元帥を探す俺たちの阻止ではないのだろうか―――ふとした疑問が思考を掠めたとき、
「――ッアレン!」
荒んだこの戦場の大気を劈くように彼の耳へ響いたのは、の呼び声。
彼女の声を思考が拾った瞬間に、視界は一度反転し衝撃と共に脚に激しい痛みが響いた。
紛れもなく、これは敵である者たちを攻撃してこないからと楽観的に油断した応報だと、気がつく前に。
痛みと悪化した状況に歯を食い縛る鈍い音が、アレンの脳裏に厭に響いた。
アクマに捕らわれてしまったアレンを追おうと、咄嗟に槌を掴んだラビと身体を屈めた。
だが飛び上ろうとした瞬間にラビの背後にあらわれたのは、彼らエクソシストとアニタ達――アクマの格好の餌食である人間――を見つけた機械達。
今、アレンを追えるのは比較的空に近く、飛ぶ手段を持つのみ。
そう判断した彼女は、危機的状況に陥っている船上に降り立つことを選びそうになったが、この部隊の要でもあるアレンを失うわけにいかないと。
メリルシアに呼び掛け、イノセンスの埋まる右手に精神を集中させて更に身体を屈ませた時だった。
「 ただいま、 」
確かに、聴こえた音は一瞬にして世界を止める
それはもうきくことはできるかわからない、彼のもので
身体を硬直させてしまったは、今までになく双眸を見開いたまま誰かの息衝く鼓動へと。
視線を向けて呼吸が息絶えてしまうような錯覚を覚え、身体のどこかが鳴き出す。
「――なん、で」
「長い間待たせたな、でももう―――探さなくて済む」
だから、おやすみ。
そう語る彼の言葉の真意などわからないまま、背に突き付けられた物質の冷たさがコートを通り越して思考に辿り着く。
が脚を踏み出すよりも、彼の持つ武器から放たれた銃弾が彼女の身体を射抜くのが速かった。
目の前の視界を飛ぶ朱色が、自分のものであるのも何故か実感が湧かない
痛みを感じない身体ではあっても、本来なら致死的重傷を負った身体は簡単に脚を支える力さえ奪い
「―――ッ!」
突然崩れ落ちてきたが甲板に叩きつけられる前に抱き留めたのは、偶然にも一瞬視界が上を向いたラビ。
アレンが消えた先を見つめていた彼であったが、背後に現れたアクマを始めとして次々と矛先を向けてきた彼らを破壊し続けていた時。
意識していないにしろあたりの様子を窺った際に、アレンを追おうとしていた筈のの背後に、ソイツは居た。
そして、エクソシストの団服に身を包んだ男は躊躇いも無くその銃口をへと定め――今に至る。
力なく放り出されたのか細い身体から滴る血は、止め処なく流れ血溜まりを生み。
それでも、意識を失わずに揺れる眼を必死にあの男に向ける様は、酷く哀れで、痛ましく。
必死にまだ立ち上がろうとするを見下ろしている男――銀髪の短い髪を荒れた空気に惜しげなく曝している、消息不明とされていたその男は。
「痛みのない身体は、便利だろうな」
まるで言い聞かせるように、・オビルニアンは燃ゆる紅色の眼を細めた
2009/4/15
師匠登場、と同時にヒロインさん撃った…!(お前が書いたんだろ