おかえりなさいと、彼はいつもそう言って
42.昔日へ溺れ。余韻の投影に
『―――ッ! それにとも!』
また、黙って外出したのを怒られることは念頭にあったのだが、とと共に語り合っているとそんな些細なことさえ忘れてしまっていて。
今は冬。
開け放った玄関から凍えるような寒さを運び込む風が、見つかっちゃったと、互いに目を合わせ苦笑する三人の髪を柔らかく揺らす。
夜遅いというのにも関わらず、ロビーの灯りはとても眩しく点いていて、それがいつも当たり前であったから何処となく安心する。
三人の少女の姿を視界に留めるなり、一人の男性が腰がけていたソファから立ち上がる勢いと共にテーブルへと叩きつけられた本の音。
それに続いて、またお決まりの彼の言葉。
『黙って出ていくなんて、お前たちは子供じゃないんだから…自覚を持てと』
『御免、一応声はかけたけど…』
『そうそう、隊長がしーっかり聴こえるように言ってたよー』
『でも。 センセ、本を読むのに没頭してたから』
『ほら、ともこう言ってる』
悪びれた様子さえ見せない三人、あまつさえ笑ってるのだからどうも怒る気力が湧かない。
ソファから立ち上がったままだった者――は、肩を軽く竦めた後、盛大な溜息をついて歩み寄ってくる。
『俺が心配してるのはな、俺がいない時にレベルの高いアクマやノア達に遭遇してしまったら――どうするんだ』
『そん時は三人で逃げる』
『簡単に言って退けるが世の中そんなに甘くないぞ』
『じゃあ、戦うしかないじゃないか』
『違う。 助けを呼びなさい、それは恥ずべきことじゃないよ』
そう言って、普通の人より僅かに色白い指先で決まっての頭に手を置き、子供に言い聞かせるように撫でる。
は自分だけが怒られているようで、面白くなさそうに口を尖らせるのだが、他の二人はなぜか笑う。
そんな二人を横目でじとりと睨むが、にとって友であるとであるから、そこに強く込めた怒りはない。
ただ単に反抗心からくるもので、それは此処にいる誰もがわかっていることだった。
『――…わかった、だから手除けて』
『隊長、嬉しいくせに』
『!そんなんじゃッ』
『はいはい、わかったから』
『もからかうなって!ああもうッ…』
『あははッ』
一人でムキになってる以外の三人は、いつも楽しそうに笑ってる。
皆が愉しければそれでいいと、本当は師匠の手も撫でられることも嫌いじゃなかった。
でもそんなことを言ってしまうと、こどもみたいで。
ただその時は皆で楽しくいられることを大切にしたかったから、あえて言葉には出したくなかった。
わたしたちは、しあわせです。
それだけでよかったのに。
『ともかく…、、――おかえり。 寒いからまずはご飯だな』
なのに。
一瞬、強い眩暈に襲われて震える手で頭を押さえたがその行動が、ラビには不安を煽らせてしまったようで。
の身体を支えている手が、さらに強く、しっかりと回り込む。
だが彼女はふるふると軽く頭を振って、薄らと幾分か霞んだ瞳を上げて身体を起こす。
その際に見えた紫の双眸が、いつも以上に光が陰んでいたのを不意に視界に留まってしまったラビは、小さく息を飲んだ。
なぜそこまで戦いに戻ろうとするのだろうか、には恐怖心がないのだろうか。
肌を粟立たせるほどの強い戦慄と間違うほどの何かに襲われ、不意に緩んでしまった腕からは抜け出し、身体を翻す勢いを抑え込めなかった脚がもつれたが。
甲板に手を叩きつけたことで、身体を支えた。
イノセンスが宿った、右手で。
「師匠――…お久しぶり、です」
まるでこの場だけが時が止まっているかのように、しんと静まり返っていて。
先ほどまで激しい攻防戦を起こしていた筈の、船員もエクソシストも、そしてAKUMA達でさえも。
船のマストを支える柱の上に佇み漆黒の双銃を携えたと、甲板に座り込むを見ていた。
いや、動けないでいたのだ。
二人を包む空気がそうさせているのか、それとも何者かが時を繰る能力を使っているのか定かではなかったが。
誰もその場に介入する者はいなかった。
「ああ、挨拶は欠かさないんだな。 偉い偉い」
「―――師匠ッ! なぜ急に姿を消した上でこんなことを!」
一番近くでその場を見ていたラビは、突然のの怒号に身を強張らせた。
少なくとも今まで聞いたことのなかった彼女の激しい感情。
いつも、一人だけどこか遠くを見つめ決して避けているわけでもないのに、他人とは見えない一線を引いていた彼女が。
誰かに対してありのままの感情をぶつけている、その姿に、ひどく驚いて自然と目を見開かせてしまう。
は、そのまま甲板に着けていた手に力を込めて立ち上がると、メリルシアを発動させる音が鈍く響く。
その様子を見てどうしてかは至極満足そうに、口元だけで冷めた笑みを模ると銃を構えた両腕を交差させた。
「俺は、もうエクソシストではない。 それに過去の過ちは消除しないとな、お前の大切なものも記憶も立ちはだかるならば黒の教団さえも」
「…そんな人が変わったように」
「飽きた、聖職者を真似るのも弱い奴らをかばうのも」
「―――ッあなたを探していた俺達の思いも知らずに!」
「そうか。 まだ俺を思っていてくれる人がいるとはな…だがひとつ、お前に聞かなければならない」
「今更何を師匠面しやがって…!」
「嘗て俺のイノセンスだったメリルシアは大切に育ててるか? そろそろ、返して貰おうと思ってな」
「なっ…」
それは、の零した言葉ではなくて後方で話の行方を見ていたブックマンとラビが同時に放った物。
イノセンスを他人に明け渡した事実ではなく、もしの言葉が本当ならば嘗ては適合者であったから離れて、違う適合者に宿っている――?
複数の人物に宿ることができるイノセンスなど存在するはずもなく、その神の結晶は唯一の一人にしか扱えない筈なのだ。
受け入れ難い新たな言葉に、ブックマンである二人は秘かに視線を交わしたが、突然視界の端に黒い物が過る。
言葉を途切れさせたは前触れもなくの目の前に現れ、身体を捻らせると風を斬る音さえ聞こえる程の鋭い蹴りを放つ。
あまりにも唐突な攻撃には一瞬遅れてメリルシアを盾にしたが、想像以上に重いそれを押し切れずに後ろへ突き飛ばされたのだ。
轟音と共に、衝撃で甲板さえも抉ってしまうその力に誰もが目を疑い、戦く。
そんな状況を確認したは、双銃を消しさると両手を掲げて、未だ立ち上がらないに向けて言葉を残す。
「さあ、立ち上がらないととも――お前にできた唯一の仲間であるアレン・ウォーカー達も壊してしまうぞ」
厭なら、抗え。
俺に追い付いて、戦えと。
凍えてしまうほどの、声色で残された言葉は彼を中心に広がった闇で掻き消され。
一瞬にして船だけでなく、見渡す限りの景色でさえも黒い何かが広がってゆくのを、ただその場にいた者たちは見ていることしかできず。
唸るような闇の音と共に姿を眩ませたのはだけでなく、なぜか誘われるように大量のAKUMA達も共に闇に紛れて音を消す。
あまりにもすべてが漠然と急速に展開しすぎていて、状況を掴めない者たちは狼狽していたが、ラビは闇を裂くように聞こえた悲鳴にも近い叫び声に意識を弾かれる。
「…! これ以上無茶はいけないであるッ!」
「……っ、だけど誰が師匠を止めるんだ…!」
「嬢、相手は嘗て元帥であった者だ。 今大切なのは身を滅ぼすことではないだろうッ」
「なにもわからないのに俺達の過去に関わろうとするんじゃないッ!」
その一言に、どうしてか酷く思考が凍えてしまう感覚に陥った。
確かに他人の過去に対して深く介入する必要もないし、する理由がない。
なのに仲間を案じての者たちの想いでさえも、今の彼女には届かない。
頭に血が上り過ぎている、そして今までのことでわかっていたことが僅かにあった。
は過去の記憶にとらわれ過ぎていて、今を受け止めきれていない。
彼女にとって大切な者たちを他人が決めつけることはできないが、その時を共に生き抜くことはできる仲間を、その心を受け止めきれていないのだ。
あまりにも、
「―――わかる筈もねぇだろっ!」
ラビは、気がつけばその場をついてしまった自分の声に、感情を露わにしてしまった奥の思考に住む何かが息を詰まらせた感覚を抱くが。
一度放ってしまった感情は、治まることを知らず。
「確かに何もわかるはずもねぇさ、だからって勝手に一人で突っ走って解決しようとすんな! 俺らは何の為の仲間なんだよ!!」
彼女がこの中で一番怪我を負っているのも忘れて、勢いに任せて両腕を掴みを抑え。
そして、真っ向から怒鳴りつけたラビを視界に入れた途端、彼女は何かに気がついたように愕然とし。
段々と静かに、それでも確かに自分の発した言葉を反芻するように、ラビに突き付けられた言葉を理解しようとするかのように。
悲愴な面持ちで、眉を潜め何かを言おうとしたの唇が、震えていた。
「……あ、俺…」
ラビも、そんな彼女の変わり様に感情の働くままを怒鳴りつけてしまったことを後悔してか。
強く掴んだままの両手は離さずに、そのままゆっくりと、それでも確かに。
「悪ぃ…、だけどこれ以上だけが傷つくのが耐えられねぇんさ」
「……わかってる、」
「え、?」
「わかってる、皆が…アレンもリナリーもラビたちも俺を気にかけてくれること…だけど止まっていられない…ッ」
「望んでるだけでは消えてしまう、口に出してしまえば拒絶されそうで厭なんだ。 だから師匠に会って今までの気持ちの整理をつけてくる」
せめて、俺が今できることはそれくらいだから。
そうしたら説教でも何でも聞くから。
そう、静かに呟いて俯いたの瞳からひとつ何かが伝ったのをラビは見逃すはずもなく。
余りにも強くて、どうしてそこまで意志を貫き通せるのかわからない心を垣間見て、だけど相反した弱さを記す一筋の軌跡に胸が痛んで。
そして今まで心の内を明かすことのなかった彼女がこれほどまでに、想いを露わにしている姿を見て。
掴んだままの両腕を引いて、戦う者として既にもう脆過ぎるを強く抱くと、彼女の首筋に顔を埋め瞳を閉じる。
「……止めても行くんか?」
「止めなければ、師匠は」
「わかった、だけど――ちゃんと"ここ"に帰ってくるんさ」
じゃねぇと俺、許さねぇからな絶対
「……御免、ありがと…」
そう、やんわりと笑んではラビから離れるとが消えたほうの闇へと視線を向けて
もう一度皆のほうに振り返ると、静かに双眸を閉じて身体を翻すと共に僅かに上げた右手を振った――
それは、行ってきますという別れの合図
2009/6/7
途中で切ったらおかしくなりそうだったので、今回は一区切りまでを
そして次からが本当の始まりです